2006.09号

<第二部>

豊和工業の撤退は象徴的? リスクが高い中印への現地進出

− 部品調達は今後も伸びる、日中でメーカー再々編成の兆し −

  およそ3年前、豊和工業は織機に続いて紡機からも手を引くことをユーザーや取り扱い商社、部品サプライヤーなど関係先に挨拶回りして「需要不振で、今後製造から手を引くことにした」旨を通告して回った。内外のクライアントから「日本で初めて国産化した90年の歴史を閉じるのか」と惜しむ声もあった。
 しかしその10ヵ月後に、パキスタンから綿花の豊作で紡機が足らず、特別枠として30〜40万錘の精紡機、自動ワインダなどの国際入札を実施するとの連絡が入った。その頃、円安、ユーロ高に振れていたことから、日本は紡機の70%、ワインダの60%以上を受注した。豊田と村田が大いに潤ったことになる。まさにブランドと実績などによって残存社利益にあずかったというわけだ。

  確かに受注ロットがまとまれば、また同一使用であれば、流れ作業しかも単純化されて生産コストも下がる。精紡機や織機はロット、単一使用で商談がまとまり易い。とくに綿糸の場合は紡機や織機で1ロット何10台、何100台といったケースも多々ある。合繊フィラメントでも、タフタやポンジーといった定番品あるいは中強撚糸や仮撚加工糸使いの場合でも、WJLを最低でも24台、時として500〜800台といったロットで工場に設置される。自動ワインダでも海外の場合は3〜10台程度が大多数だが、中国の大手紡で50〜100台といったロットで発注してきた例もあり、インドでも今後20〜50台ロットで受注できそうだという。

  豊和が紡機製造から撤退するとした時期、村田でも大きな動きがあった。'99年のITMAパリ展でMVSエアスピニングによる綿100%の紡糸(カードスライバから練条・粗紡工程を省いて直接精紡する方式)を毎分200米で紡出するもので注目を浴びたが、さらにノズルなどの改良によってエア高率を引き上げ、毎分300米前後の紡出にメドが立ったタイミングでもあった。しかしこれまでの主要市場であった米南東部の繊維産地は、安い中国製品に押されて、かつての勢いはもはや失っており、欧州のロータ空紡機や村田MJS(約540台の納入実績)といった革新紡機の導入も、冷戦終結後は先細りとなり、クリントン民主政権の政策で、これまでの共和党による伝統的保守産業への保護政策からIT産業活性化への転換などによって、一段の衰退を招いたといってよい。
 これらの新鋭あるいは革新紡織設備はどうなったのか。日本でも石油ショック後や円高不況時後にその現象が見られたように、米でも倒産や工場閉鎖によって生じた休眠設備の大半が金融投資ファンド、リース企業を通じて専門中古取り扱い業者が、例えば国内の残存中小紡織工場あるいはメキシコやブラジル、チリなど中南米、そして欧州系企業が経営するアルジェやモロッコ、綿花産地のエジプトや南アにも米から流出していったと伝えられた(都築紡アメリカもリース会社が買い取り転売された)ものだ。
 ロータ空紡機は中国で20年以上前からチェコや豊田機をモデルにコピーして、すでに1,000台以上が稼動していると北京や上海展で盛んにリークしている。MJSも7〜8年から、そして綿100%200米紡出の村田MVSも、そこそこの精度のコピー機がすでに出現したようだと嘆いていた。

  中国には、これまで'60〜'70年代にかけて日本のメーカーが欧米から技術導入あるいは合弁生産してきたような風潮は全くなさそうだ。技術導入契約によって頭金や特許・指導料といったロイヤリティの観念はハナから無いに等しい。となれば省エネ・超精密・超高速しかも肝心な機構・コントロール部をブラックボックス化することも必要になる。今のところその代表例として日欧の自動ワインダ・同じく超高速または超広幅あるいは電子ドビー・ジャカード搭載のAJL、染色では多色・ジェットかつ高速・広幅プリンタなど。またニットでは無縫製横編機など。合繊関連ではすでに衣料用ナイロン・ポリエス設備は中国において過剰気味で、中小規模のものはインド、トルコ、ブラジルなどに期待して、今後対中ではタイヤコードなどの産資用かインテリアBCFといった技術ノウハウが難しいものが当面の狙いだろう。20〜30年前に革新だ新鋭だともてはやされたレピア、WJL、高速フリクションDTY、ダブルツイスタ、あるいはダブルやシングルジャージ丸編機(コンピュータ柄出機構を含む)といった、当時においては比較的高精度な中高級機でさえも、今やアジアNIESや南米ブラジル、旧東欧圏でも、その気になれば恐らくコピーもしくはニーズに合わせた性能のオリジナルの機械を作ることも可能だろう。ただ当事国もしくは周辺輸出先に相当量の需要が見込めた場合で、かつ経営者の意欲と資金、技術(設計・組立・調整など)、人材、販売力、そのうえ部品・電装・制御システムなど協力するサプライヤーがなければ、早々にニューカマーとして進出できないのではないか。その点、中国にはコピー能力と豊富な労働力、そして何より国内には旺盛な需要がある。
 中国製を80年後半にいたり、例えば当時開催の大阪・国際繊維機械展(OTEMAS)にコーマや練条機を出展していたし、90年代に入ってもカードや精紡機などを出していた。日本向けというより、むしろインドやアセアン諸国を意識してのものと考えられていた。数年前からフィリピン、ベトナム、ネシア、最近ではインドやパキスタンへも紡機輸出が活発化している。FTA(2国間貿易協定)の締結と何より値段が安いことが売り物で綿産国のウズベキスタン、アフリカのエジプト、スーダン、南アにまで手を拡げつつあり、ODAのような形態をとりながら資金と人材付きで病院や学校を作って援助し、そして労働集約の軽工業の代表的モデルとして紡績や織物のモデル工場を建設・操業するなど、現地の実情に合せて戦略的に"五星紅旗"を浸透させていくやり方である。こう見てくると、コピーすることで研究開発費は図面代だけですみ、そのうえ低賃金で製作する機械が中国内だけならともかく、他国に臆面もなく輸出されたのでは、これまで日欧メーカーや商社が苦労して開拓してきた国際市場が、たちまちのうちに水泡に帰すことになりそうで、その辺りのことも自社だけのことと思わず、どう中国製と対抗あるいは共存させていくかを、10月の北京展あるいは来年のITMAミュンヘン展で日欧の業界団体あるいは大手メーカーともども胸襟を開いて協議する必要がありはしないかと思える。

  単独であれ合弁であれ、また技術や部品等あるいは資金を供与することで途上国に日欧メーカーが工場進出することは戦前から行われてきた。まずその国の需要を満たすべく進出することが主な狙いだが、やがて安い労働力と低関税といった優遇措置もあって、40年以上も前から繊維メーカーが東南アやブラジルなどに進出してきた。
 繊機メーカーでは豊和工業がブラジルで紡機の現地生産をはじめたのが恐らく最初だろう。当地に東洋紡の紡績工場があり、それに対応した動きだったこと、そして日系人が多かったことも手伝った。やがて織機も生産し、米ドレーパ社のレピアルームを現地そして米向けにも輸出していた。そのご繊機が欧州からの攻勢によって競争力を失い、そのご鋳造技術や精密・切削加工技術を生かせて軍兵器(戦車の装備、砲弾、自動小銃やライフル銃など)製造に転換している。
 '90代に入って豊田はITソフトで知られるインド東南部のバンガロール近郊に同国財閥と合弁で高速新鋭精紡機の生産(主要部品は一部持込)を始めた。当時、インドの機械完成品の輸入関税率は100%だったことで、現地生産が有利しかも財閥が相手という安心感も手伝って進出したことだった。同時に豊田や現地側の誘いもあって豊和が前紡で日本スピンドルもスピンドルや変速機などを引っさげて近隣地で生産をはじめたが、結果はいずれも期待から一変して失望に変わってしまった。それまでインドは国内産業保護政策を長く続けており、自動車や機械等には高率関税をかけてきた。'63〜'68年にかけて円借款の供与によって日本製の紡機や織機が同国に輸出された実績もあり、現地に入り込みやすいとのにらみもあった。
 なぜ現地生産が失敗したのか。ハッキリいって日本側の精度要求が高すぎて部品の現地調達が容易でないことから、やむを得ず高関税を承知で日欧から持ち込まざるを得なかったことに加えて労働作業員の未熟さと低能率、無断欠勤などでロスが多く、結果的にコスト高となりユーザーに受け入れられなかった。豊和と日スピは相当の赤字を出し続けた結果、業態を転換して撤退し、豊田も唯一現地で製造している日本車であるスズキの軽の部品(鋳鍛造ものが主)を生産供給することでしのいできた。やがてトヨタ車も認可が降りて現地生産と伝えられることから、前出の豊和ブラジルと同様に、豊田もそれなりに授業料を払って生き残れることになろう。
 インドでは40年近く前から欧州の有力部品メーカーが現地生産に踏み切っていた。例えばSKFのスピンドル・インサート、スッセンのドラフトパートなどだが、やがてコピーものに押されて撤退しており、完成品では帝人製機がドローツイスタの図面を供与して一部ノックダウンで作ろうとしたが、相手のヒムソン社と条件が合わず途中で挫折し、同時にヒ社は英スクラッグのDTYをノックダウンで生産し、売れ始めるとすべて国産に切り換えて、オリジナル機の半値近い値段でたちまちシェアを拡大させた。この例は中国の無錫の中堅メーカーと独のバーマグのDTYの合弁生産が、わずか2年でコピーものを独自で製造販売してバ社を怒らせブレークした。その後バ社は同地で100%の自前工場で作り始めて、ポリ長ブームによって一時は月30台以上出荷したと伝えられた。バ社は4年前にスイス・サウラーグループ入りをしているが、同グループのフォルクマンとアルマ社が各種撚糸機でバ社と同様に無錫で3年前に現地生産に入っている。

  インドや中国でも、つい最近まで海外勢は100%資本の現地進出を拒んできた。仕方なく合弁・技術供与・共同生産ということになってしまうが、そのほとんどがうまくいかず損切り撤退している。豊田に買収(義理買い)された整経・糊付機の河本製機も中国で大赤字を出したのが、こうした例といえる。
 村田機械はこれらの失敗例を横目に見ながら10年前から100%の直接投資の部品生産工場の進出をはかり、8年前に上海郊外で立ち上げた。当時は完成品を直投工場での生産販売は認可されなかったが、輸出した自動ワインダやDTYの消耗・メンテパーツ向けの工場として、また並行して日本へ逆輸出するとして申請承認された。今では工作機や自動搬送の鋳鍛造部品、それに犬山工場にあったダブルツイスタの無人アセンブリラインを上海に持ち込み、スピンドルなど1部を日本から調達して完成品をサウラー・フォルクマンの現地製に対抗して販売競争しようということらしい。いずれ自動ワインダはともかく、唯一機種のエアジェットスピニングMVSの現地組立も視野に入れているのかどうか。
 村田に限らず、中国から部品やフレームを買付け輸入しているところは繊機メーカーでも数多く見受けられる。例えばツダコマなどは20年も前から織機フレームやギアなど鋳造部品を中国に委託生産させてきたし、帝人製機も合繊テークアップのフレームやスピニングやリフト等を技術指導して輸入し、仕上げ・検品のうえ組み込んでプラント輸出をすべく手配する仕組みを考えたが、当初は委託先の未熟さ、いい加減な素材のため粗悪品をつかまされ、保険も仕入れ価格の数分の1程度しか出ず、結局は数億円の損害を被った。これ以降は部品調達の専門別会社を上海に設立して(帝人製機・村田機械・東レエンジによる3社合弁のTMTと切り離した独立子会社。また3社の機械やプラントの組立・据付・操作までを行うスーパーバイザーもそれぞれ別組織で独自に活動している)リスクと責任を分担させている。

  分社化にはメリット、デメリットが混在している。これまで大手中堅の繊機メーカーに協力工場として部用品の下請けをしてきた国内の中小零細業者の生残りの大方は、自動車や建材、産機などの下請け孫受けなどに転業している。転換できずにいる零細業者は細々とこれまでの繊機パーツを作って、商社や機料店を頼って海外に持ち込んでいる。ただし中国向けは少なく、韓台ネシアなどのほか、日本からの進出繊維工場向けもある。これは納入大手機械を通じて補修部品を調達するより(しばしば中国で作らせたものがある)日本の下請けから直接取り寄せた方が、かえって安くて納期が早く、精度も高く信用が置けると、現地の購入担当者は口を揃えて云う。コストが安いというだけの理由で中印から部品などを調達する繊機メーカーは、今後とも材質・精度・検品の問題や、慣れてくると粗悪なコピーものにスリ代えて出荷してくるとも考えられ、エレベーターやプール、防火シャッターなどの事故に見るまでもなく、常に"危機管理意識"を持続していく必要がありそうだ。その辺りも考慮したうえで、村田は恐らく直投・現地法人の"上海村田を設立したのだろうか。

  第2部の最後に「中国人民銀行は8月19日より、企業などへの貸出金利0.27P引上げ年利6.12%にする」と発表した。金利引上げは今年4月に引き続き2回目で、これは4月〜6月の第2四半期のGDPが年率11.3%に達したことから、いぜん活発な不動産や設備投資を抑制する目的のものとされている。ただし繊維関連の投資は、対前年比でマイナスとなると予測されている。
 昨年7月、人民元の対ドルレートを切り上げている。今11月の米の上下院選挙を前に、再切上げの圧力がかかろう。イラン、イラク、レバノン、北朝鮮、それに南米の反米左翼政権の台頭など頭の痛い国際問題が山積している。それでもFRB総裁や財務長官が交代し、年内にも何か新しい政策(景気もしくは減税など)を打ち出してくる可能性がある。そのさい日本にとって決してプラスになることはないだろう。具体的には"円高"に振れるということになる。必然的に輸出企業の利益は圧縮される。付加価値の低い繊機製造業にとって、まさに秋から明春にかけて、経営戦略の立て直しに奔走することになりそうだ。

 <第3部、第4部は次号及び次々号に>